2010年3月28日(日)

東京で料理教室をされていらっしゃる保田美幸さんご夫婦と筑波山に登ってきました。
山頂では粉雪が舞い、樹氷まで見られる始末。 そんな光景を877mのお山で見ることは真冬でも珍しいのに。3月終わりだとは思えない、美しい冬の景色でした。
終始、マラソンやトレイルラン、山歩き、スノーボードの話題で盛り上がる大人4人。 文化系だと思い込んでいたわたしも、すっかり体育会系の仲間入りしてました。。。

お土産にいただいた保田さん手作りケーキは、アイシングされたうっすら白の上にドライイチゴの穏やかな赤。 偶然にも今日1日感じた冬の名残と春の訪れのイメージにぴったり。 保田さん、今日の山頂を予感されていたのかしら?!甘酸っぱい、春の味がしました。わたしもこんなケーキ、作りたいなー。

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保田美幸 イチゴケーキ

2010年3月22日(月)

彫刻家尾崎さんの個展で偶然知り合った作曲家島田宏さんの作品を聞きにまいりました。"上智大のすぐ横のホールで、日本の歌による「四季」"という曲を初演します。バリバリの現代音楽を書く人、ときいておりましたので、期待がたかまります。しかし響いてきた音は、どこまでも素直な歌でして、少年のような島田さんが浮かぶようです。曲の構成は、さすがというと全く失礼なプロの綿密さで、しかし素人にもわかるのは曲のつなげかたのセンス、"茶摘み"〜"ほたるこい"、"冬景色"〜"雪やこんこ"のかぶせかたからは、新鮮なイメージがふうっと湧いてくるのでした。曲は春にはじまって、春に戻って来るのですが、このあたり、ゴルトベルク変奏曲的で、ぐっときます。今日は春、ソフィア通りの桜並木の花芽にすこし色がついていました。

その後偶然に、たい焼きを買いに入ったデパートでベルギーの花の人、ダニエル・オストさんの展覧会が開催されておりましたので、行ってみることにしました。美しい「花の彫刻」を作るかたで、女性に大いに人気のあるかたです。これはこれで、大変きれいなのですが、個人的には、花は彫刻とみるものではないし、彫刻だって、花をそのまま使うような簡単なものではない、というすこしハードコアな考え方を好みます。いずれにしても、形の"うしろ"に何かがみえないことには、記憶からすぐなくなってしまいます。いわゆる花の彫刻はとても綺麗だったけれど、一方で花瓶に花を入れたようなものは、どれも面白くなかった。日本のいけばなが、どれだけ難しいことに地味に取り組んできたかということが、逆に強く感じられます。会場には本人いらっしゃって、ちゃっかりとサインをもらい握手してもらいましたけども、こちらは心中それほどおだやかでなく、お話が発展しませんでしたのはすこし残念でした。

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2010年3月15日(月)

沈丁花がうっすらときた。

湿る春とくゆうのにおい、嗅覚と記憶とはどうも相当ちかいようで、この時期カフンなぞよりもこのにおいのほうが、くるよーだ。年々、しかし、この時期の印象がプラスに動きつつあるようにおもうのは、すこしはオトナになってきているのか、と、わずかに浮き足立ったような空気の中、新しい自転車をこぐのだが、ここ2年のあいだにやたらと自転車を買いすぎたというので、これ以降、妻曰く、「一生自転車を買ってはいけない」そうである。

このあいだ久しぶりに行った雪山、というかゲレンデ、超ハイレベルのすべりを見せていただいた友人ミーさんがこの夏オープンに向けてキャンプ場づくりのためきこりになっている話を興奮してききつつ、ウエアに次々おちてくるものきれいな雪の結晶をみる。水分子のかたちから、この高度におおきな形はちょっと簡単には想像されない。これから、大まかには、こんな研究をはじめたい。

水上の夜、山下清のタイル画を眺める湯舟にはハニワがたってるファンタジックな風呂が大いに気にいった温泉宿、館内の本屋コーナー「蓬書店」では、絶版の文庫やなんかが、当時の値段で売っているのも相当に気に入った。購入したのはアララギ派島木赤彦の「歌道小見」、第一刷。「古い本ですみません」と女将さん、いえいえ、こんなの(いちおう新品だし)240円では今買えません。

この時代、古めかしすぎず、モダンすぎず、頑固だが少しハイカラなおじいさん風の意見は、ずっしり来ることが多い。「打てば鳴り、斬れば血の出る」ような表現をよしとして、「末梢神経を刺激するだけで、中枢神経に沁みてこない」「外面的、物質的」なことには「頭が下がらない」。うーむ。窓のそとではざあざあと、川おと。

「われわれは、自分が生まれる時授けられた性情の一面を歪めたり、遺却したりして生長しているのがふつうであります。現世の環境に歪みがあり、虧欠があるからでありましょう。古人の作品に接触することによって、覚まされたり、補われたりすることが多いのでありまして、さような問題に無関心で歌を作している人は、自分では自分全体を投げ出しているつもりでも、それが、なお、一人よがりに終わる場合が多いようであります。」うーん、これは、おじいさんであり、しかもソンタグだ。重要だ。

もうやたらめったらにクルクルふらふら滑るワカモノが多い中、カービングがしっかりキレるようにと、ミーさんが長年かけて生長したフォームを真似るわれわれも、”古人の作品”に敬意を表しているつもり。まだまだですけど。

大学で最近新しく居室をもらって、勝手にロゴをつくってドアにはっつけた。アウシュビッツ、というととたんに暗いのだけど、そのスローガン「アルバイト・マハト・フライ:働けば自由になる」をもじって、フォルシュング・マハト・フライ、とした。フォルシュングは研究。やんないと自由になれないというせっぱつまった感じというよりも、少なくとも自分を自由にするような研究を目指そうとの意。

今夜も風呂で「歌道小見」をぴらぴらとながめていたら、当時(昭和.53年)の文庫のしおりが湯にすべりおちた。曰く、「考える時間をとりもどそう」。ほんとうにそうなんだよな。

春のつれづれなるままに。

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