2010年5月30日(日)

陸の孤島からは映画を見るのにいちいち高速バスで都内に出たものでした。
今ではおおきな映画館もできたようですが、やはりみたいものを見るには、いまだ首都に出ないといけません。まあ今回はイメージフォーラムでやっている「ビルマVJ」というやつなので、仕方ありません。軍事政権下のミャンマーでは、かなりの規模のデモが起こっても、軍が出てきてバーンと発砲して終わり。 のぞみがまったくない感じが、すさまじいです。最後はサイクロンが襲来して終わった。 暗い。まったくどうしようもなさそうに見える。日本ではかなり自由に荒い縞のシャツも選べて、エクスプレス電車にも乗りすきな映画だって見れるのに。帰ってきて新聞を見ると、こんどは「ミャンマー、死の猛暑」で半年雨が降らずに水不足だそうです。

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2010年5月29日(土)

おんがくについて、好きになるものは最初の一音で好きになるもので、でも最近は、オウテカさんや、カルステン・ニコライさんといった電子音響系の、まあそもそも音つくりに一生懸命な人の音に反応するくらいで、そりゃあまあもっともなのですが、あとそういえば、この間ふとつけたテレビでアルカディ・ヴォロドスさんがスクリャービンをひいており、その音にも一発でやられた体験をしました、それくらいで、陸の孤島では飛ぶ鳥の声こそすれ、先端の音楽というものにはあまり出会えずにおりましたところ、本日、鉄の作家須知さんが展示をしているセンスオブワンダーという音楽イベントになんちゃってゲストとして、まったく何の働きもせず、ロハで入れてもらい、sourさんという初めて聞くバンドのおとに最初っからやられてしまって、楽しみました。歌詞が聞き取りにくいがなんかおもしろいことをいってそうというのも僕にとってポイントで、そもそも耳を澄まさなくてもスムースでわかりやすいことはそこまで耳を澄ますひつようもなく、複雑で、わかりにくく、えらくひっかかってくる事柄にこそ耳を澄ましたい、その歌詞にヴィトゲンシュタインさんやデリダさんなどの名前が入っていたらいったいこれは何の事態だと思うわけです。逆にお目当てにしていたflareのイシイさんは、クラフトワークさんのツール・ド・フランスをそのままかけた、ということくらい。最後にはまさか今見るとは予想もしていなかった、これはむかし背伸びして恐る恐る聞いていた、自分にとってはなぞのカリスマ、ボアダムスさんをみて、驚愕して帰りました。大人になった、と感じました。一般的に固有名詞をちらした文章はすきではないですが、今日はこのようになりました。

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2010年5月22日(土)

打ち合わせのかえりみち、細川さん家の宝が上野の博物館で、展示しているのをちらりとのぞく。もう、なんだ、全品タカラ過ぎて、これをいちいちみていては体力がもたなそうというのを最初の部屋に入った瞬間感じ、数々のタカラを断腸の思いで見てみぬふりをして苦虫を38匹噛み潰したような顔でスルーし、と中にあった三つの超エース級タカラに集中した、それは、利休の茶杓「ゆがみ」と茶入れ「利休尻ふくら」、そのよこにあった細川三斎の竹の二重(花器)。わびさび系であまり宝っぽくないゾーンな気がしなくもないが、とんでもなく強い底力。

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2010年5月20日(木)

学生さんが、「りあじゅう」がどうのこうのと、おっしゃっていてなんだ「りあじゅう」ってと聞くと「リアルが充実」していることだと。それで、たいがいの人は「りあじゅう」というのになりたいというものだという。そもそもりあるってなんなんだというのと、そもそも学生というものがリアル(ってどこのことか)だか、リアル以外(っていったいどこのことか)だかで、そもそも「充実」なぞしてどうするんだと、おもう。そもそも、圧倒的な「不足」があるから、お勉強しているんですよね、それがいとも簡単に合コンだかなんだかでみたされたとすると、もうそのさきないですよね。なんかiPodで音楽を聴いて、合コンだのをしていると「りあじゅう」というものになり、驚愕の学歴至上新卒一括採用システムにのっとって、バブルかなんかでよくわからないうちに大きくなった企業に雇ってもらったら、若くしてもう「かちぐみ」となれる、という雑誌だかテレビだかの斬新なおはなしを、そこまでこころから律儀に信用して自身のあいでんてぃてぃとすることが、皆そんなに上手にできるのならば、別の価値観提案することだって同じくらい簡単であるはずなんですよね原理的には、と、これは自分に対しておもいます。

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2010年5月18日(火)

うわさのオザケンライブ、「ひふみよ」に。

天才は好きなので、オザケンさんも好きだ。なにがすごいといって、そもそも20年も前にかいた歌詞の内容が、いまでも修正がほとんどまったく必要ないということがすごい。いまここにきて再び「大衆音楽」であることを高らかに素直に肯定するまでには、どのような過程を経たのか、それはいったいいつ素直になるのかという自分にとっても大変重要な謎であるきがして、気になって仕方ないのだけど、それはおいといて、それにしてもながいことかけて戻ってきた20年前の詩が、そのまま有効であるなんてちょっと信じがたいことでしょう。

ライブでは、隣の女子(単独)がところどころで口を押さえて涙をこらえていたのが、当時のレンアイでも思い出しているのか、そういうのをみているのはなかなかぐっと来るものがある。いわゆるべたな、音楽の力というやつが、隣のみしらぬ女子に作用するのをまじまじとみて、改めてべたな音楽の力というやつを想う。

自分はしかし、ここ数年でオザケンさんを知ったばかりなので、彼がうたっている事態自体に感激するものでも青春のレンアイでもしのぶものでもないけれど、ずば抜けて興味深いステージで、歌はともかく、演奏と詩のメッセージが完璧にちかく輝き、まさに天才を見た感じ。そーとー量の謎を残して。

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2010年5月17日(月)

本屋さんをふらふらしていたら、レモン色の表紙がひと際目を引く大澤真幸THINKING「O」創刊2号。 美しい表紙には、対談ゲスト 姜尚中さんの文字。手にとらない訳がありません。 他の雑誌には見られない趣向がこらされていたのも好感が持てたのですが、特に感銘を受けたのは最後の見開きにある「創刊の辞」と、「左右社社名の由来 石川九楊」。
わたしなんて毎日大したことを考えていないけど、こうして良い思想で、なおかつ美しいデザインのモノを手に入れてしまうと、考えざるを得ないですね。

「左は、手に工をもった形。工とは、僧や巫女が手にする呪具。右は、手に口(さい)をもった形。口(さい)とは、祝祷を収める器。左、右とも祈りの文字である。 その左と右の字が重ねられて「尋」という字が生れた。近くに、遠くに、神の真意を尋ねるからである。 「祈り」から派生して、左、右とも「たすける」の意味がある。 また、二つの手を並べて、「友」の字は生れた。 友とともにあり、つねに人間と社会の本意を尋ね求める出版活動を願って、左右社と命名した。」

自分の名前に使われている一文字の由来が偶然ここに書かれていました。30年ちょっとの間、知らずに使い続けてきた一文字が、とても誇らしく思えた瞬間でした。

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2010年5月16日(土)

土曜日のあさの空気にねころがってボブディラン特集の雑誌巻頭の、本邦初訳とかいうインタビュウをながめていたら、なんかめずらしい、いいこと書いてあるよ、「ぼくは歌をつくるとき、ひとつの方向にしか働かない考えは持たないようにしている。昔のブロードウェイの作家の失敗はそこにある、彼らはひとつの方向にしか向いていない、循環がないんだ。歌から新しいものが学べる、刺激がかえってくるということがない。僕はいつも、歌に逆向きの力を与えようとしている。そうでなければ、聴く人たちの時間を無駄に使うことになる」と、素晴らしすぎる。いまじゃあやれグローバルだ標準化だと、ブロードウェイ一直線になろうとしてる我が日本のカガク技術やその他もろもろ、は、しかし、そもそもこの逆向きや循環の作用が得意だったはず。いけばなの本当の面白いところはこのへんですよ。グローバルビズネス的になんかやって偉い金持ちになりたい人はやればよろしいが、ジンセイもっと面白いことはよりローカルで不経済なところにもっと信念をもって向き合ったところにありそうだ、とヨーグルトをたべながら、そういえばいま近くの図書館内でかのフルクサスの靉嘔さんの展覧会がやってるのを思い出し、60年代的気分のつながり、tさんと出かけた。中に入れるようになっているアルミの小汚い箱「神は此処に眠る」(土足厳禁)のなかにはマジックで「電気を消して自分の中の神と話してください」、というかんじで、すべてが良かった。ああこの年代いい。やっぱローカルで不経済な、スマートでないところに、底力みたいなのは絶対に宿り、スマートなのは結局弱いもんね、臆病にならなきゃいけなくなるし、ということで、これからの実験作業だって、花のことだって、そういうとこにこそ信念をもっていいんだと思う。

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2010年5月13日(木)

外の木々たちに負けじと、部屋のねむの木もぐんぐん。
ふと見ると、なぜかリアル フレッドペリーに! 誰かがいたずらしたのか?!

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ねむの木

2010年5月6日(木)

家のまわりの木々たちは日ごとに緑が濃くなっています。
GWはどこにも行けず仕事ばかりしていたので、「これじゃグレーウィークだ。。。」と思っていましたが、わずかに時間を見つけて出かけた 近所の公園の木々たちに休息のとり方を思い出だせてもらいました。やっぱり今年のGはグリーンだったてことかな。

先日作らせていただいた多岐川装子さんたちのコンサートチラシも、新緑の力を借りて作りました。
「トボからのお知らせ」に掲載していまーす。

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新緑

2010年5月4日(火)

アホみたいにいそがしくてまるきり不健康、不自然な生活を続けているので、アタマが完全におかしくなった。それでも仕事文章、〜である、みたいな文章は、いやいやながらも、かこうとおもえば結構いくらも書けて、ビズネスライクに、論理を通すこと、伝わりやすく、見やすく単純化することってのは、そう、やろうとおもえばできる、その程度のことでしかなく、そこにそれ以上の、なんか海坊主が出てくるような、面白いことがいかにもなさそうなので、そういうことばばかりあつかいすぎているとこちらの生命力も低下してカゼをひく事になって、セキはよく出る。そういうときは外で寝っ転がって空を見るに限る。「歩きつかれては夜空と陸との隙間にもぐりこんで/草にうもれては寝たのですところかまわず寝たのです」と昼間から高田渡をアタマに流してチャリを高速でこぎ伝説の科学博覧会跡地で草にうもれて雲を見ていると、カラダをちゃんと物理的に通してセカイをみる回路が回復されるような気がしますので、いい。論理でなくてカラダで見たところにこそ、ようやくおもろい物語がでてくるわけで、博覧会当時の浮き足立ったカガクの見かたも、そのようなものだったのだろうな。そう見てないのが、例えばあれです、今一番話題の炉、高速増殖炉。仮想の世界で地に足がつかない役人仕事をいやいやにしていると、真面目にやればすぐできるはずのことがいつまでたってもちっともできなかったというだけの話です。

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空