2010年7月28日(水)

突然ですが、あふりかにいってきます。

( y+t )

2010年7月25日(日)

夕立がすばらしい。

週末のゆうがたの空気に、自転車小屋の屋根がバラバラなって、とたんに一面の白色ノイズ、雨のにおい、青い稲光、雷鳴がどんぱち、大量のH2O、風、気温の変化。なかなか豊かな物理です。豆電球の部屋で、冷製ぜんざいを食べながら、アメリカ青春デカダンス小説を片手に、網戸越しに外の夕立をみる、これは稀に贅沢な夕方。猫は怖がって机の下。

( y )

2010年7月17日(土)

梅雨明け祝。

この日は一年のうちでも一番くらいくっきりと季節がかわるのだし、おそらく一年のうちで一番空気がきれいな一日といえるのかもしれないのだし、みんなもっとこの日を総出で祝ってもいいのかもしれん、とかおもいながら自転車にのるがつりとした日差しの午前、灼熱、ひとはまばらでぼちぼちあるいているだけ。夏はこの周囲の無意味なまでの過剰さがいい。夕方からはくもってしまったので、この祝祭的な午前中の雲でも写真に撮ればよかったが、とらなかったのもまた印象を強くするのでいいものです。

未だ異常にいそがしい。 現在鋭意サイトリニューアル更新作業中です。

( y )

2010年7月2日(金)

あまやどりに入った本屋で、ロミとかいう人の「突飛なるものの歴史」とかいう本があったのでためらわず買ってきた。およそ変なものと変わったもの図版がいっぱい載っているようなやつ。その序文の出だしがいい。

「私たちの周囲のいたるところに実利主義という名の、あるいは手にあまる専制的な良識といいかえてもいい泥沼が広がっている。そこにあるのは、その日その日をどう送ろうとか、いかに安楽を保つかとか、何を食べ何を飲むかというようなことがらばかりだ。ロミのこの書物は、そうした泥沼にどっぷりと浸かりきることを拒んできた、現代の読者すべてを魅了するだろう」

かたや、米国初のいんたーねっとショッピングモールと同じような「何とか天」というのや、中華人民共和国で大量につくらせた衣服を売る「何クロ」だとかとかいうのが日本を代表する大企業というのだそうで、それがグローバル化に対応するため英語を公用語にするとおっしゃっていて、もうそれは嬉々として頭の先まで合理的泥沼に埋まっていっているようです。

こういうことが、こないだ新聞に出てた、「賞味期限の表示が30日と書くべきところを31日と間違えて書いたから全部回収します」、というお塩だったかなんかの、愕然とするほど良識ある広告がスタンダードにまじめにうたれるような、すてきな泥沼市場で、ブイブイいわすための必須条件らしい。

しかしたとえばヨォロッパの非英語圏では、英語なんて公用語にしてなさそうですが、英語でしゃべる必要があるときには、多くの人が「何とか天」の社長よりはだいぶ上手な英語でしゃべる。まあだいたいはこれでよいのであって、いま英語化を主張されている中高年の方々は軒並み英語がまずく、何か英語に特別なコンプレックスを抱いておられるのか、まあ人それぞれの嗜好に何の文句もありませんが、それを一般化する理由は一ミリもないのであって、まずは 社長ご自身が勝手に英会話スクールでノバしてもらえばいいじゃない程度のはなし。

しかしこういう英語化みたいな大きなうごきは、時々あるようでして、ひどいのは森有礼さんが言い出した日本語廃止論てやつで、これは逆に米国人言語学者から猛反対をくらったようです。その米国人の言い様がすばらしいのでコピイすると、

「一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年のヘ育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります。」

自国の文化は自国の国語で、というのは普通ですが、 英語化かなんかで標準化したつもりが、結局格差を生んで発展を妨げるとのくだりはなんかするどい。

しかし、そしたら、せいぜいいやらしい二項対立程度のまったく単純なパターンしか生み出せない標準化やら国際化ってなんなんすか。セカイをそんな均質な泥沼にしてなにがそんなにおもしろいのでしょう。やれ突然に、ガラパゴス化が悪い、ガラパゴス化が!と舌をかみそうになっていったって、ガラパゴスの自然のほうがニュウタウンのまちなみよりはるかにおもしろいのであるよ。

まあ、そんなに、人民服を世界のみなさんに、そんなにもきせたいなら、英語もつかってやるしかないでしょうけど、それは人民服を世界のみなさんにきせたい人だけが人民服をせかいのみなさんに着せる目的にのみやればよくって、別に人民服を世界のみなさんにきせるのが男子一生の仕事と思わないひとだっているのでしょうから、そういうひとにとって標準化など別にどっちでもいいような代物かもしれないではないですか。

「地域の固有性を守るためにも、グローバル化に関与しなければならない。」とは、なんか深遠そうでやはり意味がない、脳科学者さんのごく最近のいいかげんな意見ですが、こんな具合にもうかなりどこもかしこもグローバルまっしぐらのご時勢に、先日なくなってしまった多田富雄先生が、新聞に実に逆のことをかいていたのが、思い出しても実に素敵に愉快であるので、書き抜き。いつか前にも書いたような気がするが。

「私は現役の頃、専門外のことにも熱中し、能や文学など、無駄な道草をくってきました。でも、無駄に見えても、後で役に立つことはたくさんあります」
「それができないと、いくら英語で論文を書いたとしても、競争一辺倒のぎすぎすした論文しか生まれません」
「競争だけでなく、助け合って、より良い発見ができる、こちらのほうが能率がいいに決まってます。」
「文部科学省も過去の成果だけを重んじて、これから何をやりたいかということは聞こうとしない。いきおい成果主義と仁義なき闘いに走ることになります。やせ細った、小粒の研究しか育たない。何より未来への夢がない。」
「若い科学者は、小さな競争に現をぬかすだけでなく、自分の独自のアイデアを引っさげて、世界の科学者のコミュニティーに参加する心がけが大切です。」
「そのためにも自国の文化を知ることは必須です」

はるかに真面目なグローバル化論です。現を抜かしてないで、がんばろう、と。

( y )